賢者の日記

賢者の日記

齢20と幾年、穴から出られなくなった山椒魚が思った事を記す。

私の「大先生」について

私の誇るべきクラスメイト「渡邊大先生」について書きたい。

 

先日、あるきっかけがあって、職場で「今日の名文」の連載を再開した。
連載と言っても社内の特定の人物に対し5~600文字程で書評を書き、それを社内メールを利用して毎日送りつけるものである。
送り付けたところで反響や感想のメールが返ってきたことは今まで一度もないから、虚しさばかりが募るひとりぼっちの闘いでもある。

 


「再開した」という日本語の選択には、大学時代のサークルのブログや、卒業メンバーによるブログ開設など、何か発表の機会があるたび、なにかしらの形で「今日の名文」として再開と頓挫を繰り返してきた背景に起因するものである。


「今日の名文」の起源は、私の中学時代にまで遡る。
NHKの人気番組「にほんごであそぼ」の1コーナー「きょうの名文」から着想を得、試行錯誤創意工夫を凝らし、過不足なく丸パクリした企画である。

 

当時学級委員長を務めていた私は「日刊級長」を創刊した。それは教室の黒板の片隅に誰の許可なくひっそり掲載した非公式の機関紙であり、「今日は何の日」を主力かつ唯一の目玉記事としていた。

 

コラム「今日は何の日」とは、「日刊級長」の掲載日が、例えば「芸能人○○の誕生日から28年と54日経った日」と紹介するものだ。ふざけている。これ一本で勝負しようと考えた編集長(すなわち私)の勇気が凄い。

 

創刊早々誰の目から見ても手詰まりの感漂う状況を打破すべく(ただし読者は0なのだから、誰の目から、というのは言葉のあやである)、私はこの「きょうの名文」を掲載しようと考えた。

 

問題は書くべき名文など一文たりとも知らないという点にあった。詰んだ。日刊級長は創刊4日目にして順当に廃刊の危機を迎えたのである。

そこで白羽の矢を立てたのが変わり者の渡邊氏であった。

 

〇 

 

渡邊氏について、ここでどれだけ記述してもその魅力の半分も伝わらない。
日本人離れした堀の深い顔、陰毛を植え付けたような癖のある髪、話す折から紆余曲折する複雑怪奇な文脈、国語の教師が裸足で逃げ出す意味不明の論理--何を説明しても彼の人間としての芸術性・完全性を表現することは難しい。

 

たとえば、廊下で教師に叱られている生徒がいる。皆が遠巻きに見る中、ひとり喜々として近づく者がいる。目の前で止まった。
目を丸くする当事者をよそに「先生お得意のお説教ですね!」と挨拶する。当然怒られる。

これが渡邊氏である。

 

100人いれば98人が彼を教師の話の腰を折りに来た変人だと思うだろう。残り2人は渡邊氏本人と私である。私は、その一件を以って彼を「大先生」と呼ぶことにした。だから以降は彼を「大先生」と記述する。

 

私は大先生に「なんでもいいから好きな文章を紹介してみせろ」と挑戦した。
彼は何も言わず漢字の羅列を並べてみせ、最後に伊藤博文と添えた。
いけると思った。


大先生は私の見込み通り、どこから拾ってくるのか、毎日正体不明の迷文を紹介した。彼は芥川や太宰を好んだ。

かれの紹介する文章が本当に芥川のものだったとして、けれども一体なぜこれが「名文」なのか、それは私にも理解不能であった。だがこれがために日刊級長は延命させられたのである。大先生の賜物である。


「日刊級長」はその数日後に目出度く廃刊を迎え、卒業式となった。
卒業式の寄せ書きに、私は大先生に再度「なんでもいいから文章を書いてくれ」と頼んだ。我々なりの友情である(大先生に通じたかは知らないが)。彼がその時書いた文章は、以下のとおりであった。


「渡辺です。最近思ったのですが、『ある種の芸術は集団的自衛権を持てない傷ついた羊のひずめの跡なんじゃないのかな。』と、そう思いました。
『同族でも群れることのできるものにはおそらく伝わらない生きた証。でも、だからこそ、わかんなくても別にいいだろう。』と、そんなことを考えなから生産性のない生活を続けています。
(芥川の後期とかとくにそう。)」

(誤字脱字原文ママ


当時中学生の私にはまったく意味が分からなかったが、社会人となった今も意味が分からない。
だが2000年初頭にすでに一介の中学生が「集団的自衛権」という単語を用いていた事実を思うにつき、驚愕させられる。

 

同時に、やはり当時の直感は正しかったとほくそ笑むものである。