不気味な交差点のはなし
たまに、小さな発見をすることがある。
二つの道路が「交差」している「点」、だから「交差点」。
「アクアリウム」の「リウム」は「プラネタリウム」の「リウム」と同じ。
原因と結果、繋げて「因果」
いくら説明したところで誰も分かってくれないけれど、私にとっては結構衝撃的な発見だ。それでいてこの感覚は、あまり気持ちの良いものはない。
認識の再構築。
まるで誰からじっと見られているような、自分のものだったはずの世界が、他人に犯されてるような感覚に襲われる。いつか馴れるだろうと思っているけれど、未だ馴れない。
この印象は、対象が身近なものであればあるほど強烈だ。
交差点の例などはその最たるものだ。
普段私たちは道路が交わる地点を指して、交差点と呼んでいる。むしろそれ以外には使わない。
けれど言葉の由来からしてみれば道路に限らず使って良いことになる。数学の問題でも「AとBの交わる点」なんて言わずに「交差点」と言った方がわかりやすい気がする。易しい言葉なので誰もが理解できるはずだ。
なのに誰も使いたがらない。
さらにいえば、発音すら怪しい。
「交差する点」ならば、アクセントは交「差」点が正しい気がしてくる。
けれどそんな呼び方は誰もしていない。
自分と世界との間にある、どうしようもない違和を見せつけられている気がしてしまう。
どれだけ説明しても誰も取り合ってくれないから、それによりこの違和はさらに加速して、永遠に終わらない。
だからこの発見は、あまりしてほしくない。