賢者の日記

賢者の日記

齢20と幾年、穴から出られなくなった山椒魚が思った事を記す。

夜のねざめ

 学生のとき一度だけ、夜の店に行った。

 夜の店と言っても京都は規制が厳しいらしく、一般に想像されるようなのは余り多くない(まぁ無いとも聞かないのだが)。私の行った店も、お酒を飲んでちょいちょいっと遊ぶような、社会見学程度のものだった。

 私はその店へ、サークルの先輩と数人連れで入っていった……。

 

 大学時代、私はサイクリングサークルに属していた。体育会系を標榜していたものの、深夜アニメは観るし本は読むしブログは書くしで殆どインドアに近い。私にはその絶妙な塩梅が心地良く、二回生で顔を出してから、つい最後まで居座ってしまった。

 そんな中途半端なサークルだったからか、アウトドア派の学生はアウトドアサークルに行くし、インドア派はインドアサークルに行くしで、真っ当な人間は寄り付かなかった。そこでは屈折した価値観がガラパゴス化して熟成され、「非生産的なものにこそ価値を置くべき」という独創的な文化が羽を伸ばした。またその臭いをどこから嗅ぎつけてくるのか、腕に覚えのある奇人(私を除く)が自然と集まってくるのも不思議だった。

 我々の情熱は、京都-稚内間を鈍行で乗り継ぐ、京都市バスを制覇する、ビデオアメリカ白梅町店のCDレンタルを制覇するなどといった、主としてサイクリング以外に向けて注がれた。それらの偉業は誰からも褒められなかったが、誰も相手にしないぶんサークル内で賞賛され讃えられ、その功績はのちの後輩達の越えるべき峰となった。

 先輩方は言うまでもなく変な人で、その先輩は論を待たない変人である。大学を出て坊さんになったOGもいたくらいだ。その背中を眺めながら、我々は立派な奇人となるべく、高度にシステム化された教育によって奇人道をどんどん駆け上った。

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よくない教えを詰め込まれる私

 

 なかでも私は先輩方からは特に可愛がられた。くせ者だらけの先輩陣から格別の寵愛を受けたということは私の誰にも言わない自慢でもある。

 

 その先輩の卒業コンパの時のこと。

 宴もたけなわ、お開きの空気が座を満たし始めた頃、私が三年間のお祭りの終わりを受け止め静かに浸っていると、先輩が私の肩をがしりと掴んだ。目がギンギンに光っていた。

山椒魚くん、僕はどうしても行ってみたい店がある!」

「行きましょう、今日は地の果てまで付き合います」

 本当についていくつもりだった。先輩とネジを飛ばす最後の日なのだから。

「そうか!嬉しいぞ山椒魚くん」

「さぁ、いずこへ!」

 先輩はもうテンションが爆発していて、私も俄かに誘爆して、楽しい酔い方だなと思った。

「僕は○○パブに行きたい!」

「……」

 吐くかと思った。

 

 その数十分後、我々は薄暗い個室で顔を付け合わせていた。

 長細い小さな部屋には机と椅子、その他には入って来たドアと何処かへ通じるドア、壁には換金所の様な小さな口がくり抜いてあって、地獄の窓口かと思われた。入るとき兄やんから「ビールが欲しければ窓の前に立ってな」と言われたが怖くて誰も立たなかった。小さくなりながら私は、某国へ売り飛ばされる時、こんな箱に入れられるんだろうな、とか考えていた。

 その部屋には我々の他に二人連れの男がいて、しきりに貧乏揺すりをしながら、落ち着きの無い目をぎょろぎょろ動かしていた。暗がりに白目が四つ光るのが異様だった。

 ドアが開いた。

 我々の名が呼ばれた……。

 

 60分はあっという間だった。というと誤解を招きかねないが、やったことと言えば女の子と対面でお話しするのみで、後には拍子抜けの感のみが残った。

 先輩はいつまで待っても出てこなかった。

 先輩は30分延長していた。

 

 何ごとも経験というが、あの日ほど濃厚な経験はない。あの夜を通して、私の社会の窓はあの小さな個室分だけ、広がったのだ。

 SNSで友達の輝かしい投稿を目にして寝覚が悪くなるとき、私はあの夜を思い出す。私はこれからもこうしたコスパの悪い経験を重ねて、少しずつ社会の窓を開いていくのだろう。

 

追伸

 後日聞いたところによると、先輩はあの日、延長に加えボトルキープまでしてしまったのだという。

「怖くて断れんかってん…」

 と嘆く先輩に、私はおおいに笑わされた。