賢者の日記

賢者の日記

齢20と幾年、穴から出られなくなった山椒魚が思った事を記す。

1月12日のブルース

 今日は待ちに待った三連休の中日である。

 何をするということもない。主義主張個人的趣向その他諸々、生活における主軸を持たない私は一たび仕事という外圧から解放されるやいなや、他にすることがなくなってしまうのである。

 そういえば父もそうだった。父は帰宅するたび、キッチン裏の上がり框に腰掛け、よく読書に耽った。母はそんな父を家庭に興味のない夫として糾弾した。しかしそれは冤罪だった。父は少なくとも掃除皿洗いはしていた。十分不十分の議論の余地はあれど、全く働かないというのは正確ではないと思っていた。

 ひとたび母が声を上げると、父は重い腰を上げ、今度はリビングでテレビを観る。勿論それで許す母ではなかった。父も、少しずつ反論すれば良いものを、声の大きさも度胸も負けていたため、ストレスを抱える一方だった。だから最後になって家を出て行くことになったのだろう。

 晩年の我が家は両親の静かな相克の渦中にあった。父の面影を脳裏に探ると、その淋しい背中が浮かぶ。

 

 私の話に戻る。

 ここに趣味のひとつでもあれば、或いは気兼ねない友人のひとりでもあればまた違うのかもしれないが、いつしか私は暇になると書物に逃げるようになった。背中を丸めて書に向かっていると、記憶の中の父の背中が亡霊のように浮かび上がってきて(実際の父は死んだかどうか知らない)、それが私の未来に暗い影を落としていくように思われてならない。私は自らに父の影を見るたび、明るい未来のないことを痛感するので、最近は恐縮してばかりいる。

 

 その避難所たる読書さえ社会人となった今、平時の疲労や加齢による脳力の低下に伴い、大分覚束なくなってしまった。最近はスマホばかり眺めて時間を浪費するばかりである。

 

 そこでこの連休中、スマホの電源を切ることに決めた。スマホと向き合っていた時間を何が埋め合わせるのか知りたくなったのだ。電話嫌いであるし、スマホを永久に手放したい欲求はこれまでに何度か湧いてくることがあった。ただし本当に着手してしまうといよいよ世間からオサラバしてしまいそうなので、その善後策としてたまにアプリを全消しするなど、小さな鬱憤ばらしをしていた。スマホを手放すのが夢だった。

 では、スマホの時間が何に取って代わられたのかと言うと、果たしてそれは睡眠であった。

 この連休中ずーっと寝てた。日記のネタにもならない。街へ繰り出すなり、人と話をするなり、最悪読書なりするかと思ったが、まーったくせんかった訳である。無い金を節約することにはなったが、若さを浪費している感が強い。こうしている間に世間では資格を取ったり、旅行に出たり、成人式を迎えたりしているのである。考えるだに、辛い。愈々社会の穀潰しの才覚を発現しつつある私であった。