賢者の日記

賢者の日記

齢20と幾年、穴から出られなくなった山椒魚が思った事を記す。

文体練習:倒置

今回は倒置法の練習をしたいと思う。

→今書きながら考えていることは、倒置法の文体練習をしてみようかということである。

 

最早ブログ(日記)でもないような気もしないでもないが、果たしてなぜこのような趣向に興じようと思い至ったのか、それは昨日、安吾集の中で次の一文を読んだからである。

→果たしてなぜこのような趣向に興じようと思いっ立ったのかというと、それは昨日、安吾集のなかで倒置法を用いた一文を目にした為である。もはや日記としての体を為していないの誹りを免れるべくもない。

 

忌憚なく言えば、彼こそ憎むべき蛸である、人間の仮面を被り、内にあらゆる悪計を蔵(かく)すところの蛸は即ち彼に他ならないのである。

坂口安吾「風博士」

 

読んでいて、これだ、と思った。私の文章表現が今一光らないのは、すべて記述が順接である為に違いない、そう確信した。

→これだ、と読んでいて確信した。これまでの文章において、私は殆ど順接で記述していた。順接で書く癖こそ、私の文章が今一つだった原因に違いない。確信して曰く、手っ取り早くリズムを変えるには、倒置法(と呼んでいいのか定かではないが)を用いるに如くはない。

 

しかし、書いているとどうだろう、書き換えるまでもなく、私の中で倒置法は存外用いられる傾向にあり寧ろ癖づいていたように感じるのは私の気のせいであろうか。

→しかし、このように書いていて漠然と思うところには、もしや私は元々文章を倒置する癖があったのではないかしらん。

 

寧ろこの文体練習が私の悪癖を矯正する作用をもたらすことを期待するばかりである。

→今しがた私の期待は、新しい文体の取得という当初の目的を大きく逸脱して、この文体練習が私の悪癖の矯正に作用せんことに注がれつつある。

 

おもしろい。明日もやろうっと。

 

追伸:シティポップというジャンルを知った話

youtubeを眺めていると、なぜか杏里のLast Summer Whisperという曲がおすすめとして出てきた。この記事を書いているその時である。

 

その曲は初めて聴く曲だけれども、再生して第一音目で、確かにどこかで聞いたことのある、懐かしい感じが頭を染めた。80年代の曲に共通してみられる、鼈甲飴色をした、あの甘い感じを帯びているのが良いな、と思う。

 

別れの後で電話したことを許してほしいけど ねぇ

もう一度だけあの店で会いたい それで終わりにする

杏里「Last Summer Whisper」作詞作曲:角松敏生

 

 

私は80年代のポップスに弱い。80年代の失恋ソングには滅法弱い。

なんというか、高度経済成長の終焉が影を落とし始めた当時の哀愁が漂う感じがたまらないのである。世代的に経験した事は無い筈なのだが。

 

明日から二人 別々の日々でも この街のどこかでね

生きてるかぎり 会える気がするのよ その時は笑顔で

杏里「Last Summer Whisper」作詞作曲:角松敏生

 

 大学四回生の頃、恋をしていた。透明で繊細な心の持ち主で抱きしめると壊してしまいそうな、美しい人だった。

 ゴールデンウィークから夏季休暇までの、3ヶ月ほどの恋であった。

 私の大学生活の記憶の大半を大学四回生の一年が占めていて、この初恋の記憶は私の人生の大半を占めている。あれから6年が経とうとしているが、未だにあの3ヶ月を乗り越えられないでいる。

 不意にこのようなノスタルジックな気持ちに落ちることが年に何度かある。そんな自分に気付くと、私は決まってウイスキーの瓶を開ける。鼻腔を満たすツンとした香りは、下宿で涙に伏した安ウイスキーの香りと何ら変わらない。

 まるで成長を見せない自分に愕然とする。しかしそれと同時に、この自虐的趣向が未だ瑞々しさを保てていることに安堵してしまう。私はウイスキーを舐めながら、アンビバレントな気持ちと共に記憶の池にゆっくり浸かっていく……

 

 どこかで彼女も思っていてほしい、そんな気持ちがこの80年代ソング、女性シンガーによる失恋ソング好きに影響しているのだろう。

 まだまだ暫くはお世話になります。