賢者の日記

賢者の日記

齢20と幾年、穴から出られなくなった山椒魚が思った事を記す。

ねこ

 昨日は仕事だった。今日も仕事がんばった。明日も仕事である。明後日は月曜日だ。

 社会人を数年やって、いまや大学時代より長く社会を経験している。休みの少なさにはある程度勤めれば慣れると思っていたが、それでもたまに、長期休暇が欲しくなったりする。

 朝起きて、さて今日は何しようかと考えていた頃が懐かしい。今日も予定なし、明日もなし、天気がいいから自転車で出かけよう。この生活は、モーロー人間的にはその日その日を真剣に生きている実感が感じられたので好きだった。性に合っていたのだろう。社会人はこうだ。朝起きて、予定は無いが会社に行かなければならない。

 自分の前世は猫だったのではないかと思う時がある。言うまでもなく、よく寝るから。猫的可愛さ愛くるしさはあの世に置いて転生してしまったに違いない。寝られれば天国なくらいの人間なのだ。世知辛い人間社会なんて打ち捨てて、飼い猫のように安寧に寝て過ごせればと常々考えている。今のところ絵に書いたお餅である。いや、この言い草は失礼かもしれない。野良にも猫社会があろう。彼らからシャアシャア罵声を浴びせられそうだ。

 今年は子年だそうだ。急に猫がどうのと書こうと思ったのはこれが原因かもしれない。あるいは、本当に眠くて切り上げたかったからか

ダウナー

 仕事から帰ってきて、amazon prime松本人志のドキュメンタルを視聴する。ネクタイを緩めながら、下品に呵々大笑する。新年早々、糞みてーな1日だ。

 日常は糞だが、ドキュメンタルは面白い。シーズンでいえば1、2、3、5が好きだ。下品サイコー。

 錚々たる出場者のなかでも、レジェンドクラスのザコシやくっきー、あれはもう話の前提として隅に置くこととして、霜降り明星せいやの活躍ぶりには目を見張るものがあった。ものまねさせて面白い、度胸があって面白い、謎の鼻炎も面白いとどこから切っても笑えるのは好感が持てる。M-1優勝の実力は伊達ではないということか。去年のM-1優勝を果たしてからというもの、テレビで彼らを見ない日はない。この一年で相当鍛えられたのではないだろうか、破竹の勢いとは彼らのことだ。

 翻って、勢いという観点からみれば、このブログの勢いは死んでいる。開設当初から、悪事をなさず、求めるところ少なく孤独にを念頭に、なにより長続きすればこそと熱量も抑え気味で書いてきたブログであったが、気づけば熱的に死を迎えていた。数か月前のことである。何を思ったか、最近になってまた書き始めている。この一字一字、何バイトなのか知らないが、世の中の資源を食い潰していることを考えるだに、良心の呵責に苛まれる。いま「だに」が「ダニ」に変換された。グーグル先生、追い打ちやめてくりゃー。

 はてなブログのリンクから他のブログへ飛んで視察してみると、アクセスランキングの上位に向かうにしたがって、趣向の凝らし方が豪華になってくるらしい。写真やらリンクやら、マウスを動かすだけで画面上がめくるめく変化して、これぞwebページ! と言いたくなるスゴイページばかりであった。

 このブログの勢いは死んでいる(気に入った)。

 まぁこのブログでそんな大層な事しようとも思わないし、できないし、本当を言うと最初の一、二記事あたりで持ち弾は全て打ち尽くしてしまい、加えて新たに勉強するのも億劫という手詰まりな状況にあるために、もう何もすることがないのである。状況はひっ迫している! 詳しく言うと? それが分からんということが既にひっ迫しているということなのだ!

完遂

洋服を買いに隣県までお出かけした。隣県とは言え位置関係上は2県の端と端、片道140kmの大遠征である。

我ながら殊勝な提案をしたものだと思う。定めし自宅会社本屋の三角飛びするという、生粋の出不精を有言実行しているものだから、年に数回、こうしてえっちらおっちら遠出することで精神的な均衡を保ってるのだろう。

この隣県は、以前美術館を訪れた際、下道で4時間かかった。海越え山越え、流れる風景は代わり映えしないと言えば嘘になるが、結局はアクセルを踏む以外にやることがないのだから、挙動の上での代わり映えがない。そのときは行きの2時間くらいで運転に飽きてしまった。行くのも帰るのも億劫で、嫌だ嫌だと思いながら何とか走破したのは記憶に新しい。今回はその反省を生かして高速を使った。だからとても早かった。が、やはり2時間程で飽きがきた。このことから、問題は私の集中力にあることが推論されよう。

 

正月のアウトレットモールは大変混雑して、歩き回るだけで疲れる様である。割引率を見てもあまり宜しくなく、特にこれという獲物も無かったので、すぐ引っ返した。手ぶらで家に帰って、結果だけ見れば高速代とガソリン代、時間諸々を浪費した形である。

 

 私は鷹揚とした性格で、万事おっとりして、そのうえ半端な吝嗇であるから、遊び方が壊滅的に下手だ。叶うものならもっと豪胆な遊びをいつかしてみたいと夢見つつも、いつの間にか川の流れに身をまかせている自分がいる。それで無駄な事ばかり重ねて、結局締まりのない感じで終わってしまうのだ。余りつまらないので自分でも直したいと思っているのだが、いつしかそれが板についてしまったように見える。

三者の目にはそんな私の姿勢すらだらしの無い印象に拍車をかけるものらしく、友人から何度か注意を受けた記憶が幾度もある。言いたくなる気持ちも分からんではないから、そのときは神妙にしていた。

 

先人の智恵に従うところによると、一年の計は元旦にあると言う。

私がだらしのない生活を送る所以は、この一年の計画を立てないことにあるのではなかろうか。友達は毎年、一年のテーマを決めると言っていた。

私のテーマは「完遂」

できることを一つ一つ、完了させていくこと。途中棄権はしない、ということで、性格矯正を図りたいと思います。

忘年会

今年も色々あった。

人が笑って、泣いて、時々怒って、新人が入ってきて、辞めて、また入って、そうして、忘年会である。

 前にも書いた気がするが、私は、多少おおらかの質で、万事がどんぶり勘定というか、物覚えがよろしくない。人の顔と名前のいずれもテンで覚えられないし、地理だって頭に残らない。初めて通る道だと思って恐る恐る運転していたら、反対方向から見た生活路と判明して拍子抜けしたということが少なくない。それで人からいい加減にしてくれだの、都合がいいだのとよく呆れられる。遺失物もする。だから平日の朝など、キーを捜索する時間まで勘定に入れて目覚ましを設定するようにしている。

 その年を忘れると書いて忘年会。

 忘れるということ。それは、物忘れ、認知症、健忘症など、負の単語と撞着しがちだけれども、世間で言われる程には、私は、悪いことではないと思う。

 人は皆、良いことと悪いこと、公平に忘れる。恐らくそれは、食べ物の消化されるのと同じ事。忘れた様でも、普段の生活のなかで、夢の中の風景が時折浮かんでくるように、それらは私の深い部分で残って、共鳴し、作用する。

 過去にあった、又はあったかもしれない全ての事柄に対して。

 

 今年一年お世話になりました。来年もまた宜しくお願いします。

 

エウレカ

そうか、そういうことか! 

ついに私はこの数日来悩まされてきた謎を解明した! 霧は晴れ、道理が残った。然して私は先の如く哮り、勝利の小躍りを披露したのである。欣喜雀躍と軽快なステップを踏んでいたところ、深夜だったので階下の母から逆咆哮をくらった。龍の逆鱗に際しては神妙にする他ない。ただしこれは一種の誇張表現であって、正確に記すなら、実際の私は咆哮の一歩手前に留め軽快な小踊りも控えていたので、母はいつも通りポカンとしているのみであった。とにかく、脳に掛かる靄の晴れ渡る如く、快活で気持ちが良かった。

 

ずっと、今年のクリスマスは周囲がやけに静かな気がしていた。

例年12月には「クリスマス」「恋人」といった単語が何処からともなく生活のなかに侵入してきて、いつしか街を覆っていたものだが、私の生活範囲で言えば、今年はそれが無かった。

人間社会でよく見る、恋人のある者とない者というお馴染みの対立煽りも無かった。

それについては「いつまで同じことを言っているのか」と少々ウンザリしていた所も無いでは無かったので清々する思いではある。が、いざ何も無いと、ソワソワする気持ちが頭をもたげてきて、ウンザリすると言う私自身も様式美に頼ること大だったという事実が露見し、これは反省すべき点だと思う。反省しながら、私は数日前からこの点について考えを巡らせていたのである。すなわち、今年のクリスマスがクリスマス然していないのは何故か。

 

 

一つは温暖化にある。

大気中に形成された温室効果ガスの外殻により、地球の発する熱エネルギーが宇宙に上手く放出されず、一年を通して気温が上昇、今年はホワイトクリスマスならずに終わった。それが我々の無意識に作用してクリスマスという思想の萌芽を封じ込めたのではないかと推測している。

だいたいの物事は規模の大きなもののせいにすることでもっともらしく聞こえるので便利だ。

 

もう一つの理由は切ない。

要するに私以外の人間がみな結婚してしまって、彼女がどうとかそういう次元からアセンションしてしまったのではないか。

となると口を噤むという私の判断は正しかったことになる。彼女の自慢がどうののレベルに留まって、いつまでも喚き散らす哀れな男という誤解を生まずに済んだと言えよう。

クリスマス前夜

 社会人になるとイベント感覚が鈍るのだろうか。今年はハロウィンも終わって初めて気づいたし、直前までクリスマスの存在を失念していた。12月の勤務希望を出すとき、それを偶然見ていた先輩が指摘して初めて気づく具合である。

 社会人になるとこの手のイベントには手を引くようになるのか。

 そう思ったが、よく考えれば昔はハロウィンは馴染みが浅かったし、クリスマスもヤッパリ予定なんて無かった事に気付いた。今更嘆息のしようもない。万事平常運転であった。

 業務時間が回って、サテ残業スルカ、と腕まくりしたところ、足早に帰っていく同僚と目が合った。そいつは犯罪の現場を目撃してしまったような都合の悪い眼をしてそそくさと立ち去っていった。決まりの悪いのは本来こちら側であるべきなのを、私が豪も態度を崩さぬものだから、向こうで却って遠慮してしまうのだろう。

 

今さら定時で帰る帰らないも無いものだと考えていたらそう言えば今日はイブであった、ははんさては女かと思い出し、次に自分の年齢が女に浮足立てるギリギリの所にあるのに思い至り、見渡せば部屋に残されたのは私より2回り歳上の人間ばかりであるのに気づき、然して順当に鬱々たる気分となった。さっきから何度も来ている、子持ち女の着信履歴も、それに追い討ちを加えた。問題は包囲網を狭めてきていた。寒い夜には堪えるようだ。

 

クリスマスを楽しむ、大いに結構。他人と共有する、結構。しかし、独りで貝の様にやり過ごす、これも結構である。

今日は降誕祭。

28歳妖艶論

中学三年生のとき、独自の研究を重ねた私は「28歳女性妖艶論」を説いた。要旨は以下のとおりである。

1.女性の魅力は28歳で最盛を迎える

2.この傾向は素材の良い人に著しい

3.なぜなら、私の好きな女優が軒並み28歳だからである

 

この説は男子生徒の間で一世を風靡せんかった。かすりともせんかった。情熱を優先しすぎ汎化が足りなかったのだろう。*1

聴衆は可愛ければなんでもええやんけという乱暴なスタンスをとるばかりで、聞き入れられなかった。私の様に研究者の目線で女性に接する、実際に接着したことはないが、観念的な意味で接するような謙虚な人間は少数であったように思う。*2

私は初めて江戸を訪れた宣教師を慮った。

 

私が如何様に年上女性に興味を持ったか、その経緯について些細に記述することは、本稿の蛇足となりかねないので避けることとしたい。だが私は今なお、この説の支持者でありたいと願っている。実際、28の女優は可愛い。

そして、今私は28歳その真っただ中にいて、28歳の女性と仲良くなっているのである。

 

美しい人である。明るい性格で、言葉や身振りの端々に底知れない包容力を感じさせる人である。すべて理論通りで、だからと言う訳ではないが、これこそ理想の人と言ってしまうに申し分ないと思われた。

 

夢にまで見た状況。

なのだが、知っての通り、私は6年前の失恋から回復できずにいる人間である。当然、こう考えることになる。即ち、

「この新しい感情に純愛という言葉を類推適用するのは言葉の濫用ではないか」

「充ち足りぬ心を折よく転がってきた人で塞ぎ、これが恋だと嘯いているのではないか」

「身勝手な解釈と姑息なレトリックを悪用して傷ついた自尊心を回復しようという魂胆ではないのか、機に乗じて失恋を乗り切ろうというのは少々底が浅いのではないか」

「己の心は日本アルプスの湧き水より透き通っていると胸を張って言えるか」

、などなど。

私の中では幻想の女性と現実の女性が争っていた。一方を選べば他方は永久に失われることになる。この三日間というもの、私は深く煩悶、鬱々とし、食事がちょっと控えめになった。

 

ついに一人で悩むべきではないと判断した私は、友人に電話をかけ京都でお世話になったコンビニのおばちゃんに長い手紙を書き、その文字を反芻して自己批判にも余念なく、その結果、とにかく会ってみんことには始まらんだろう、という結論に逢着した。それは友人が口癖のように私に聞かせていた薫陶でもあった。私は友人に深く感謝した。

 

そうと決まれば即行動である。今やPDCAはDの段階にシフトした。

私は手始めに、彼女を飲みに誘ってみた。果たして返事はOKであった。

上々の運びである。

続いて、こんな言葉が返って来た。

「子どもを寝かせてから行くね」

私は戦慄した。

この返答は想像の範疇を軽く超えていた。意識の海に沈めていた感情が別の疑問を伴って再浮上した。

そうだ、よく考えてみれば28歳だもんな、子どもくらいいるわな。では主人はどうだろうか、いるのか、いないのか、いや、そんな問題なのだろうか、そもそも、ここで狼狽える私も問題と言えば問題なのではないだろうか。

 

私はとりあえず友人に再度報告し、おばちゃんへの手紙は破り捨て、問題を先延ばしすることにした。

28歳は女性に最大の魅力を与える。しらずその沼に足を踏み入れていたことをこの時知った。

*1:ちなみに、同時期に並べて説いた「兄→年下、弟→年上好き理論」は一定の評価を得ている。

*2:私はフィールドワークは危険を伴うため、最小限に留めるようにしている。