28歳妖艶論
中学三年生のとき、独自の研究を重ねた私は「28歳女性妖艶論」を説いた。要旨は以下のとおりである。
1.女性の魅力は28歳で最盛を迎える
2.この傾向は素材の良い人に著しい
3.なぜなら、私の好きな女優が軒並み28歳だからである
この説は男子生徒の間で一世を風靡せんかった。かすりともせんかった。情熱を優先しすぎ汎化が足りなかったのだろう。*1
聴衆は可愛ければなんでもええやんけという乱暴なスタンスをとるばかりで、聞き入れられなかった。私の様に研究者の目線で女性に接する、実際に接着したことはないが、観念的な意味で接するような謙虚な人間は少数であったように思う。*2
私は初めて江戸を訪れた宣教師を慮った。
私が如何様に年上女性に興味を持ったか、その経緯について些細に記述することは、本稿の蛇足となりかねないので避けることとしたい。だが私は今なお、この説の支持者でありたいと願っている。実際、28の女優は可愛い。
そして、今私は28歳その真っただ中にいて、28歳の女性と仲良くなっているのである。
美しい人である。明るい性格で、言葉や身振りの端々に底知れない包容力を感じさせる人である。すべて理論通りで、だからと言う訳ではないが、これこそ理想の人と言ってしまうに申し分ないと思われた。
夢にまで見た状況。
なのだが、知っての通り、私は6年前の失恋から回復できずにいる人間である。当然、こう考えることになる。即ち、
「この新しい感情に純愛という言葉を類推適用するのは言葉の濫用ではないか」
「充ち足りぬ心を折よく転がってきた人で塞ぎ、これが恋だと嘯いているのではないか」
「身勝手な解釈と姑息なレトリックを悪用して傷ついた自尊心を回復しようという魂胆ではないのか、機に乗じて失恋を乗り切ろうというのは少々底が浅いのではないか」
「己の心は日本アルプスの湧き水より透き通っていると胸を張って言えるか」
、などなど。
私の中では幻想の女性と現実の女性が争っていた。一方を選べば他方は永久に失われることになる。この三日間というもの、私は深く煩悶、鬱々とし、食事がちょっと控えめになった。
ついに一人で悩むべきではないと判断した私は、友人に電話をかけ京都でお世話になったコンビニのおばちゃんに長い手紙を書き、その文字を反芻して自己批判にも余念なく、その結果、とにかく会ってみんことには始まらんだろう、という結論に逢着した。それは友人が口癖のように私に聞かせていた薫陶でもあった。私は友人に深く感謝した。
そうと決まれば即行動である。今やPDCAはDの段階にシフトした。
私は手始めに、彼女を飲みに誘ってみた。果たして返事はOKであった。
上々の運びである。
続いて、こんな言葉が返って来た。
「子どもを寝かせてから行くね」
私は戦慄した。
この返答は想像の範疇を軽く超えていた。意識の海に沈めていた感情が別の疑問を伴って再浮上した。
そうだ、よく考えてみれば28歳だもんな、子どもくらいいるわな。では主人はどうだろうか、いるのか、いないのか、いや、そんな問題なのだろうか、そもそも、ここで狼狽える私も問題と言えば問題なのではないだろうか。
私はとりあえず友人に再度報告し、おばちゃんへの手紙は破り捨て、問題を先延ばしすることにした。
28歳は女性に最大の魅力を与える。しらずその沼に足を踏み入れていたことをこの時知った。