新年(遅い)
年が明けている実感がわかない。1月は休みが少ないからだろうか。
巷では成人式を迎えた若者が風習に従い狼藉に及んだという話である。
実を言うと、個人的には新年に引き続き成人式も今年は無かったのではないかと睨んでいる。晴れ着姿も1人しか見なかったし(少子化と地方流出)。
元号意識もあるかも知れない。令和の封切りが5月で、まだ8ヶ月しか経過していないから、新年の号令を聞いても日本人として根付く魂の方で納得していないのだろう。令和2年という違和感があるのも然り。
そんなことを考えていると、会議の場で社長から「山椒魚さんは新年の目標は何にしてるの」と質問が飛んできた。気味が悪いほどニコニコしている。
社長は何でも数字で切り捨てるきらいがあって、何か問われたら数字で答えるに如くはないというのが通説となっていたのだが、こんな心境で目標のみ打ち立てている筈もなく、問われた文脈もわからない。私がふにゃふにゃ言っていると、社長の顔が次第に鬼の顔に変わる様子が見えた。走馬灯もかくやのスローモーションで、私は「あっ、地雷踏んだ」と直感した。
それ以上は語るまい(夜も遅いしね)。
憚りながら申し上げるに、社長と対座するときは新年の目標のひとつやふたつ用意すべし。
或る研究者の手記
生物多様性という言葉をご存知か。
地球上の生物は様々な生態系を有し、それぞれが得意とする環境を持つ。地球上の環境はいつ変化するか分からないが、この生物多様性がはたらいている内は、その中から選択された次の種が繁栄する。だから現時点での有利不利を持って生物の優劣はつけられず、生物多様性は地球生物の存続の担保とされる。そういう文脈で用いられる言葉である。
だからチョット平均から外れていたとして、それを咎めたり非難したりしてはいけない。例え異色の相容れない文化に接しても、それを認めなければならない。その寛容さこそ、この世から戦争を廃する唯一の手立てなのだ。
では、蓼食う虫も好き好きという言葉はどうか。これは、香辛料として使われる蓼にすら喰らう虫はいるので、人間の好みもそれぞれだという意味である。
大文字山に登ったときのことだ。
懐中電灯を片手に、大学の後輩とえっちらおっちら登っていくと、山頂の夜景の中に、3人の男女の影があった。その様子の唯ならぬのは、男の一人がさめざめ泣いていたためだ。彼は英語でなにか呟いていたが、声が小さくて聞き取れなかった。どうやら失恋したらしい。
女は肩を抱いて「元気だしなー」と言った。もう一人の男もカタコトの日本語で、慰めようと苦心している様子である(なぜ日本語なのかは謎)。が、上手く言葉が見つからない様だった。
「あー、スイギョ…のマジワリ?」
「違う!それ違う!」
真ん中の男はまだぶつぶつ言っている。
さて、山椒魚博士は、ここまで慎重に言葉を重ねて、漸く本題に入らなければならない。
例え理解の及ばぬ怪物が出ても鷹揚と構えなければならない。愈々のときは魔法の言葉を口ずさもう。
「生物多様性!」「人それぞれ!」「戦争反対!」
それは今日の昼下がりのことであった。
職場の廊下を歩いていると、向こうからMという女子職員が歩いてきた。
「山椒魚さん、こんにちは」
話しかけられた。その時、葡萄の強い香りが鼻をついた。私は問うた。
「あれ、Mさん、なんか葡萄の匂いが」
「あぁ、シゲキックスみたいなの食べてる」
この返答を得た刹那、私は或る知識に逢着した。
聞いたところでは、我々の嗅覚とは畢竟味覚と同列にあるという。水に溶けた栄養素が味蕾に触れたその刺激こそが味覚であり、鼻腔に触れたのが嗅覚なのだそうだ。
つまりあれかしらん、Mさんの口から発信した水溶液が、私の鼻腔に触れたということ。
これがもし私の口呼吸していようものなら、いや、口腔と鼻腔は繋がっているのだから、今や私はMさんと唾液の交換、ロマンティックに言うなれば、深接吻したと同義ではなからうか。
(戦争反対…戦争反対…)
さあ淑女の皆さん!
私の前にお集まり、この素晴らしい大自然に感謝しましょう!
私と顔を付け合わせ、いざ深呼吸を!!!
1月13日のブルース
結局寝て終わった!
どこにも出かけず、炬燵と布団を往復して、妙な夢ばかり見て、偶に目覚めれば本を広げたりして、気付けば辺りが暗くなっていた。そして明日に向けこれから本式に眠ることになるのである。
書いている小説は結末付近で難航して手を出すに出せない。こういうのは時間が解決してくれようと懐手する他無かったが、もう丸三日経とうとしている。このまま完遂させることなく闇に葬られるのだろうと考えると、暗澹たる気になる。先へ進めるのは難儀だが、推敲は楽しい。推敲だけして作品が完成すればいいのにと思う。
菊池寛「無名作家の日記」を読んだ。悲しいが私のことだ。京都が出るからといって、安易に手を出すんじゃなかった。
彼は自らに自信がない、小作家であると書いているが、その癖「半自叙伝」のそこかしこで「一等を獲った」と書いている。幼少から晩年まで才能の塊である。すなわち自虐趣味なのである。
だが、本の位置関係上「半自叙伝」「無名作家の日記」の接続となっている分、自虐的文章のなんと寒々しいことよ。私のような凡人をかように苦しめて、菊池寛という作家は、何と悪趣味であることか! 金輪際読んでやらない! と思った。ただし、一部には芥川との関わりなんかも書いてあって、今まで内田百閒、太宰治の文脈でしか知らない芥川の、さらに知らない一面を知れたのは思いがけない収穫であった。
それから谷崎の文章読本(これは集中力が散漫であまり身になるところが少なかった)、明暗は7割読み返した辺りでよした。
1月12日のブルース
今日は待ちに待った三連休の中日である。
何をするということもない。主義主張個人的趣向その他諸々、生活における主軸を持たない私は一たび仕事という外圧から解放されるやいなや、他にすることがなくなってしまうのである。
そういえば父もそうだった。父は帰宅するたび、キッチン裏の上がり框に腰掛け、よく読書に耽った。母はそんな父を家庭に興味のない夫として糾弾した。しかしそれは冤罪だった。父は少なくとも掃除皿洗いはしていた。十分不十分の議論の余地はあれど、全く働かないというのは正確ではないと思っていた。
ひとたび母が声を上げると、父は重い腰を上げ、今度はリビングでテレビを観る。勿論それで許す母ではなかった。父も、少しずつ反論すれば良いものを、声の大きさも度胸も負けていたため、ストレスを抱える一方だった。だから最後になって家を出て行くことになったのだろう。
晩年の我が家は両親の静かな相克の渦中にあった。父の面影を脳裏に探ると、その淋しい背中が浮かぶ。
私の話に戻る。
ここに趣味のひとつでもあれば、或いは気兼ねない友人のひとりでもあればまた違うのかもしれないが、いつしか私は暇になると書物に逃げるようになった。背中を丸めて書に向かっていると、記憶の中の父の背中が亡霊のように浮かび上がってきて(実際の父は死んだかどうか知らない)、それが私の未来に暗い影を落としていくように思われてならない。私は自らに父の影を見るたび、明るい未来のないことを痛感するので、最近は恐縮してばかりいる。
その避難所たる読書さえ社会人となった今、平時の疲労や加齢による脳力の低下に伴い、大分覚束なくなってしまった。最近はスマホばかり眺めて時間を浪費するばかりである。
そこでこの連休中、スマホの電源を切ることに決めた。スマホと向き合っていた時間を何が埋め合わせるのか知りたくなったのだ。電話嫌いであるし、スマホを永久に手放したい欲求はこれまでに何度か湧いてくることがあった。ただし本当に着手してしまうといよいよ世間からオサラバしてしまいそうなので、その善後策としてたまにアプリを全消しするなど、小さな鬱憤ばらしをしていた。スマホを手放すのが夢だった。
では、スマホの時間が何に取って代わられたのかと言うと、果たしてそれは睡眠であった。
この連休中ずーっと寝てた。日記のネタにもならない。街へ繰り出すなり、人と話をするなり、最悪読書なりするかと思ったが、まーったくせんかった訳である。無い金を節約することにはなったが、若さを浪費している感が強い。こうしている間に世間では資格を取ったり、旅行に出たり、成人式を迎えたりしているのである。考えるだに、辛い。愈々社会の穀潰しの才覚を発現しつつある私であった。
2020年1月11日のブルース
去る1月3日、NHK総合で「夜は短し歩けよ乙女」が放送された。11時半スタートという、よい子は寝てしまうので視聴し難い時間であるが、山椒魚は悪い子(ども部屋おじさん)なので、起きていた。我が家にレコーダーが存在しないためにリアルタイムで視聴する以外無いという、より実際的な要請もあった。
一応、同僚たちに録画を談判してもみたのだが、誰一人として返事をしなかった。「HEY HEY HEY!」と突っ込みたくなったが面倒な信者などと誤解されたくないのでこっちも何も言わない。
円盤を買うのが一番良い。それは分かっているのだが、未だ嘗て可処分所得の多い時期を知らない山椒魚は経験則上、大口の商品との賢い付き合いを身につけており、一種の誇りとして自負している。一定の金額に達した商品は一旦、amazonの「ほしいものリスト」に詰め込み、ほとぼりが冷めるのを待つ。そしてひとたび「ほしいものリスト」へ沈められた商品は二度と日の目を浴びることは無い。長い年月をかけて物欲が雲散霧消するのを待つのである。四畳半神話大系のBlu-rayBOXもこの中だ。とそんな事を考えていると今度はその四畳半神話大系がamazon primeで絶賛配信中と言うではないか。
「夜は短し」は森見登美彦ファンの中でも特に人気が高く、最高傑作の呼び声も高い。綺麗なものだけを封じ込めた作風はまさしく宝石のようだ。しかしそれ故好みの合わない者にはとことん合わない。浮ついて現実味がない風に写るらしい。個人的にもこの派閥寄りのところがあって、同じ大学生モノなら深い含蓄のある四畳半神話大系を推したいと思っている。面白いのは間違いないんだけどね。
湯浅監督について
四畳半で心底感じたのは、この方は演出が上手い。隠喩が違和感なく入ってきて、さらに面白味に変えてしまえるのは映像作品の為せる技だろう。全てのシーンにおいて森見登美彦氏の言葉が、監督の映像が、二重三重の意味を持っていて、その演出がこちらで紐解けないほど難しくもないという、映像関係を志す方々は参考になること請け合いだ。特に四畳半の最終話は隠喩のオンパレードで、この話の円盤だけでも買うべきではないかと思っている。四畳半の話をする度に物欲が復活する。だからほしいものリストから中々消えてくれない。
個人的に好きなところ
・城ヶ崎氏は香織さんという恋人がありながら羽貫さんを気にかけているようで〜
→丸い玉がくっ付いたり離れたりするアレ(名前がわからん)で先輩たちの距離感を演出している。懐かしいし、上手い。
・こうしてみると人間とは実に奥深く、多面的なものである。表面しか見ずに〜
→最初の城ヶ崎氏の薄さに毎回笑う。城ヶ崎氏は割と好き。
・時計の進みが速くなっているシーン(夜は短しの飲み比べシーン直前)
→本領発揮というか、たしか原作になかったシーンなのだが、感心してしまった。
音楽について
大島ミチル氏の名前は四畳半で初めて知ったが、氏の作曲するBGMはその全てが耳に残っているので感動する。試みにサントラを借りたときには驚いた。今でも民放の番組内BGMで良く使われているので、作品を抜きにしても完成度は高いものと推察される。そしてそれを耳にするたびに嬉しくなる自分がいる。審美眼を認められた気がするからだろうか。
「私」のテーマpiano ver.、明石さんのテーマがお気に入り。夜は短しの方はまだ聴かないので、今度借りてこようと思っている。安いし。
ミュージカルシーンについて
ロバート秋山演じるパンツ総番長が乙女と歌うシーンは、正直初見では視聴に耐えないな、と思った。ご都合主義ってのはいいとして、やはり浮ついたノリが。ただし今回改めて見て、慣れたと言うべきか、下らなさが面白いと感じるようになっていた。鯉(恋)が落ちてきてパンツが信念を曲げるのはどうしても納得いかんが。
何かのご縁
これまでの登場人物たちが奇妙な縁でつながっていくシーン。恐らく今回の一番の改変である「本作がまるまる一夜の出来事」という設定は繋がりを強めるために設けられたものだろうと容易に想像できるし、演出的には多分正解。面白さとか、現実味については棚に上げるとして(そして上げてしまったものは今更降ろしようもない)。主題が曖昧だった原作に、一本線を引き直すという意味でも英断だったと思う。
乙女が李白さんを説得するシーンでは不覚にもホロリときそうになった。
ラストシーン付近について(夜は短し)
ここはね、原作がああだから仕方ないのです。
森見登美彦氏には悪癖があって、それは結末で盛大に投げること。マジックリアリズムの手法を悪用して、読者の想像の垣根を超えたところで物事を進めることで、万事あやふやにしてしまう。取り残された我々は、遠くの台風を眺めるように、物語の終わりを見届けるとこになる。四畳半で言えば蛾の大群(これはギリギリ地に足付いてた)、宵山万華鏡で言えば、あーなんだ、塔みたいなの。あれ?聖なる怠け者だっけ?覚えてないや。
1月9日のブルース
今日は休みだった。
久しぶりに地雷を踏んだ翌日がすぐ休みということで、会社の方が少し心配な気がする。変に体が疲れているので長い連勤だった気がするが、考えてみれば正月休みが2日まであった訳で、すると一週間も働いていないのは不思議だ。やはり三時寝六時起きが祟ったのかも知れない。根っからの夜型人間の私は、気を抜くとすぐに夜更かししてしまう。無意義に動画ばかり見て、ただ起きているというだけなので生産性もないものだ。では休みの日はどうかというと、やーっぱり動画漬けなのでこれは本当にもうダメかもわからんね。
で、日中散々ぐうたらした夜、やっぱり動画を見ている。美女が脇を晒す映像の何が良いのか分からないが、気づくと観ていた。のみならず、剃り残しや剃刀負けや汗染みなんかを発見するとテンションが爆上がりするようになっていた。寒いからとがぶがぶ飲んだ紅茶のカフェインが悪い影響を及ぼしているに違いない。
こんなとき、労働法の教授の言葉が胸に響く。
「休日は人間が主体的にその人間性、人間的尊厳を回復するためのものだ」
あぁ、先生、一介の労働者たる私は、休日に女性の脇を見ていますが、これは変態趣味によるものでは無いのです、先生。人間としての精神を回復せんため主体的にしているのです。高貴な精神活動なのです。でも先生、こんな私にも尊厳は認められるべきでしょうか。でも、あぁ、剃り跡がいいなあ、光る汗は素晴らしいなぁ!
こんな下らない日記で1時半を迎えようとしている。明日は朝当番なので早起きする必要がある。これで充分夜更かしなのだ。
徒然なるままにはてなブログを開きてよろづのことを記しけり。
言うほど筆は進まないが、これは償いのつもりで書いている。成人男性が1日かけてなにも社会に影響しなかったことの償い、日本の未来に影をさしていることの償いである。
とうとうタイトルを考えるのも億劫になった。こんな人間がブロガーを名乗って良いわけがない(名乗ったところで寧ろ蔑まれるのが関の山であるけれども。ブロガーって字面、YouTuberより落伍者な雰囲気が漂うのは私だけだろうか)
1月8日のブルース
今日の朝刊に私についての記事が躍り出た。各紙一様にこの事件を取り上げたが、この場では、就中雄弁だった次の二紙を取り上げることにする。
【悲報】山椒魚氏、失墜する
A社に勤める山椒魚氏(28)が、社長勅命の仕事四件のうち三件で失敗、社長の強い叱責を受けた。氏はかねてより社長の寵愛を受けていた。
社長は報道陣に対し「らしくない。(依頼した仕事は)パートでもできる簡単な仕事だった。期待を裏切られた気分」と述べた。さらに今月有給申請をしていた事に話が及ぶと「(水曜日は)会議の多い日。その日を休むのは言語道断と言うほかない。仕事に対するモチベーション低下の現れ」と切り捨てた。
これに対して山椒魚氏は「完全な怠慢。気が緩んでいた。猛省している」と、記者に対し言葉を詰まらせながらも自身の心境を語った。
ーー毎年新聞三面より
山椒魚、失敗ーー社長の声が事務所をこだま
「昼休みで外に出たら鬼電が入っていて吃驚しました」
そう語るのは今年入社5年目を迎える山椒魚氏(28)。彼はその日、社長命令だった案件で、失敗を何度か犯してしまったのだと言う。
氏はその原因について次のように分析した。
「正直、正月ボケがあったのかもしれない。正月休みは2日しかなかったが。それか、簡単な雑務と見くびっていたか」
取材に応じる山椒魚氏はどこか挙動不審で、当日のトラウマが影響しているものと思われた。記者が日本酒を差し出すと、言葉を選びながらも内に潜める本音を少しずつ吐露していった。
「だいたい失敗したと言っても、たかが社内の資料掲載ごときで、それであそこまで怒鳴られるのはおかしい。狂ってる。病気ではないか。
俺がそう言うと仕事を差別しているとか言い訳するなと言ってくるのだから呆れる。後出しジャンケンもいい加減にしろよ」
今後の活動について尋ねると、
「(失敗したものは)しゃーない。次の業務に切り替えていく」
と明るい側面を見せる山椒魚氏であった。
ーー朝寝坊新聞三面(地域情報欄)より